皆の期待と不安とともに、飛行機はパリのシャルル・ド・ゴール空港へ降り立った。
パリ市内のホテルは、ルーブル美術館の目の前のレジーナホテル。
ホテルは全て一流クラス。最終日の昼食を除いて、食事も全てついている、なんとも贅沢な企画だった。
レジーナホテルは、古いたたずまいのなかにも格式を感じさせられる四星クラスのホテルだった。
パリに到着したのは夕暮れ時。
飛行機の中で食事を堪能していたので、ホテルでは軽食が出るはずだったが、手配に食い違いがあり、用意されていなかった。
初っ端から波乱の予感?
体よく添乗員が取り繕い、部屋にサンドウィッチが運ばれてくることになり、一件落着。
添乗員からルームキーを渡される際、
“ヨーロッパのホテルは、部屋の割り当てがまちまちで、同じ料金でも広い部屋から狭い部屋まで様々であること。調整はできないので、自分がどんな部屋に当たっても、また隣の人との差を感じられても、比べたり文句を言わないように。”
との注意があった。 いったいどんな部屋なのか?
私にあてられた部屋は、今思うと屋根裏部屋だった。
最上階で雨音が激しく鳴っていた。
屋根裏部屋でも間取りは広い。バスルームは質素なつくりだったが、悠々とくつろげる広さだった。
今まで、どんな人たちがこの部屋に泊まったのだろう。
昔は、誰がこの部屋を使っていたのだろうか。女中さん? それともどこかの貴族?
そんな思いをめぐらせながら、いつの間にか眠りについた。
翌朝、一行はパリを離れ、バスにてコントレクセヴィルへ向かった。
飛行機の窓からパッチワーク模様に見えていたのは、菜の花畑だった。
緑の牧草から一面黄色の菜の花畑に変わり、真っ青な晴天に映えて眩しいコントラストだった。
ヴィレッジに入る手前で、“CONTREXEVILL” の可愛い看板が迎えてくれた。
4月のコントレクセヴィルはまだ寒かった。
晴れた日はトレーナー一枚で過ごせるときもあるそうだが、曇り空だとウィンドブレーカーが必要だった。
冬場は雪に埋もれてしまうため、一帯はは11月から3月までクローズしてしまうらしい。
コントレクセヴィルでの宿泊は、村で一番格式の高いホテルだったが、初めてエントランスに立ったとき、“これが??” と思うほどの質素な入り口だった。
レジーナホテル同様、質素なつくりの中にも格式を感じさせられ、何処もゆったりとしたスペースの清潔感溢れるホテルだった。
かつて、ヨーロッパの貴族達が保養所として利用したという。
200年に及ぶ歴史の流れがあった。
一段落して、ホテルの外へ散歩にでた。
ホテルを出て直、踏切がある。
この線路は、コントレックスのボトリング工場に直結しているのだそうだ。
村唯一の財源は、線路さえ曳いてしまう威力を持っていた。
線路を越えると公園が広がっていた。
花の時期には少し早く、華やいだ雰囲気はなかったものの、自然を生かした公園は、まさに命の洗濯をするのに丁度よかった。
土の匂い、緑の香りいに包まれて深呼吸すると、都会での生活で“人間らしい生き方”を忘れてしまっていたことに気づかされる。
そこには、“憎しみ、恨み、妬み、怒り・・・” あらゆる悪が存在していなかった。
“悪”が似合わない地。
どんな人でも、この地に降り立ったら笑顔になれる。
そんな気持ちが湧き上がってくる、まさに聖地だった。
“ずーっとここに居たい。 ここに居られたら、どんなことにも惑わされることなく、世の平和を願うことができるだろうに。”
真剣にそう願っていた。
肌寒く、震えながらも、時間が許す限りいつまでも公園にたたずんでいた。
公園を抜けると“テルマリズム・療法センター”がある。
“療法センター”では、コントレックスの水を利用して美容、ダイエット、泌尿器系疾患治療にいたるまで、カウンセラーがアレンジした様々な療法を受けることができる。
私達の第二の目的は、この療法を体験することだった。
日本のサロンとは一風変わった療法センターで、それぞれが思いのよらぬ爆笑エピソードを繰り広げたのだった。
つづく
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